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大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(24)

2016/07/11その他

法学部教授 黒田基樹

 7月10日(日)に放送された第27回は、豊臣政権のターニングポイントの一つとなった、秀次事件への展開が扱われていました。今回、秀次事件をどう描くかにあたっては、最新の研究成果に基づいて、これまでとは異なる新しい描き方をしています。どのような結末になるのかは来週のお楽しみで、今回はそこへの過程を描いているものになります。

 今回のなかで、真田信幸・信繁兄弟は、従五位下の位階に叙位され、相応の官職に任官されました。位階につくことを叙位、官職につくことを任官といっていました。とくに注目していただきたいのは、その叙任(叙位・任官の略)に際して、二人とも姓は「豊臣」になっていたことでしょう。

 真田家の姓は、「滋野」でしたが、この豊臣時代に限っては、叙任にともなって「豊臣」に改められていました。これは秀吉の時代、武家の官位はすべて秀吉の差配によるものであり、豊臣氏の氏長者として、氏人を推薦するという体裁で行われていました。ですから秀吉の推挙による任官にあたっては、いずれの武家も、それまでの姓を「豊臣」に改めたうえで行われていました。これは徳川家や毛利家などでも同様で、「豊臣家康」「豊臣輝元」を名乗っていました。

 また従五位下の位階と相応の官職に叙任されると、「諸大夫(しょだいぶ)」という身分になります。これは公卿の供をして、天皇御所に参内できる身分になります。秀吉の直臣は、このように秀吉の「諸大夫」として、その身分を与えられていました。ここで信之・信繁が諸大夫にされているのも、秀吉の直臣という立場にあったからになります。またこれこそが、秀吉直臣であったことの証しでもありました。ちなみに父の昌幸も、これより七ヶ月前に諸大夫にされています。

 「豊臣」は姓で、真田や徳川は名字になります。明治時代にその区別はなくなり、現在のように姓と名字は同一化していますが、それ以前は厳然と区別されていました。秀吉の時代は、ほとんどすべての武家が、「豊臣」姓を名乗っていたのでした。

 今回のおまけ。大坂城大広間の主座です。床の間の絵がとても奇麗です。

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