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大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(19)

2016/06/06その他

法学部教授 黒田基樹

 6月5日(日)に放送された第22回では、天正17年(1589)2月頃の羽柴(豊臣)秀吉による上野国沼田領問題の裁定から、同年12月の秀吉が出した「北条討伐」のための最後通告状が北条氏政のもとに届けられたところまで、まさに小田原合戦の直前までの状況が取り上げられていました。

 「北条討伐」の直接の切っ掛けとなったのは、同年10月末に生じたとみられる、名胡桃城奪取事件です。これは真田方に留保されていた沼田領三分一に所在していた名胡桃城を、北条氏の沼田城代猪俣邦憲が奪取した事件になります。

 歴史の結果を知っている私たちは、なぜ奪取などしてしまったのか、と思いがちになります。奪取しなければ「討伐」されなかったのに、と考えるからです。しかしこれは完全に、結果からの判断でしかありません。では当事者たちはどう思っていたのでしょうか。

 秀吉から最後通告状を突きつけられた北条家は、名胡桃城奪取事件について弁明するのですが、その内容は、現地からの報告をそのまま伝えるだけのものでした。おそらく氏政・氏直も、報告内容以上のことはわからなかっただろうと思います。そして現地を検分してくれればはっきりする、と検分を求めているのです。

 実は氏政は、10月末の締め切りで、家臣達に上洛費用の納入を求めていました。費用は現在でいえば数億円以上かかったようですので、準備にはそれなりの時間が必要だったわけです。しかし秀吉は、一刻も早い上洛を求めてきていて、事件の直後、まだそれを知らない段階で、すでに秀吉は上洛が遅いと怒っていたのです。

 そうしたなかでの事件勃発でした。これに秀吉は激しく立腹し、北条家の国替え、上洛した氏政を拘束する、などの憶測が北条家にもたらされたようです。これで氏政は、上洛するわけにはいかなくなりました。進退の保障が約束されなくなったからです。そうしたなかでノコノコ上洛するわけがありません。

 北条家は、氏政が安心して上洛できるよう、秀吉に配慮を求めますが、秀吉は事件の解決、氏政上洛が先であるとして応じませんでした。完全なすれ違いですね。そうして小田原合戦へと突入していくことになります。戦争が、優勢の側が妥協しないことから起きるという、いい事例ではないかと思います。

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