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学部・研究科レポート

2026.10.19

大河ドラマ「豊臣兄弟!」ワンポイント解説・第40回

第40回は、天正13年(1585)11月の石川数正(当時は康輝)の出奔から、同14年5月のあさひが徳川家康に輿入れするところまでが取り上げられていました。
石川数正出奔の影響や、あさひと副田吉成との離婚については、かつての通説に基づいた内容になっています。
石川の出奔は、徳川家から秀吉への取次の出奔にあたり、それは現代でいえば、外交官の国外追放にあたります。いわば国交断絶を意味し、当時の社会では「手切れ」、すなわち宣戦布告にあたります。なので秀吉は、石川出奔をうけてすぐさま徳川討伐を表明します。それが月末の天正大地震によって、政治交渉による家康の従属の実現へと転換しました。
ドラマでは、通説を下敷きにしつつも、秀吉が家康討伐を図るというように、そうした経緯を反映させていました。また家康への従属の交渉を、織田信雄が担っていましたが、これも史実通りのことです。
あさひと副田吉成の離婚について、あさひが家康と結婚するためとしているのは、江戸時代後期に成立した内容になります。しかしそれ以前の江戸時代前期には、離婚は、天正10年の本能寺の変直後のことと伝えられています。状況からみて、こちらのほうが事実ととらえられます(拙著『羽柴秀吉とその一族』参照)。
あさひの離婚について、どちらの説でいくのかな、と思っていましたが、かつての通説が採用されました。やはりそのほうがドラマチックですからね。
ただそれでも、かつての通説では、あさひと家康の結婚は、秀吉から申し入れたものとされていましたが、本作では、家康からの要求とされています。これは実際にも、家康から要求したものとみなされます。それをドラマでは、家康からの無理難題の要求として、見事に捉え直していましたね。
今回の内容は、かつての通説と、現在の研究成果が、巧みに融合されたものとなっているといえるでしょう。
ちなみに前回の解説の補足です。「別妻」について、当時の史料にはみえないと記しましたが、『日葡辞書』には立項されていますので、当時に存在した言葉であることは間違いありません。ただし当時の文書・記録には現在のところ具体的な使用例が確認されていないため、現状ではほぼ概念的に使用されているものとなります。
もう一つは、秀吉が茶々の寝所を訪れていることについてです。その時、茶々は数え17歳でした。平安時代から、一定階層の女性の第1子出産は、20歳くらいでおこなうようになっています。実際にも茶々は、それから4年後、21歳で第1子を出産します。このことから秀吉が茶々のもとを訪れるようになったのは、その前年の天正16年くらいからと考えられます。
ドラマで、結婚と同時に寝所を訪問しているのは、結婚を視覚的に表現するためでしょう。実際には、数年後のことであったととらえられます。しかしこれをその通りに描くと、ドラマ的には話が飛んでしまします。こうしたところに、一般的な通念をもとにせざるをえない、ドラマ表現の特徴をみることができるでしょう。

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