- トップ
- 学部・研究科レポート
- 大河ドラマ「豊臣兄弟!」ワンポイント解説・第28回
学部・研究科レポート
駿河台大学法学部教授・黒田基樹
本学法学部の黒田基樹教授は、日本史の中でも戦国史について研究をしており、2026年1月から始まったNHK 大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当しています。
時代考証とは、八津弘幸さんが書かれている脚本が出来上がるまでに、史実と脚本に違いがあるかないか、時代感が合っているかどうか、などチェックする仕事です。
第28回は、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変から、同月11日、羽柴秀吉が摂津尼崎城に着陣したところまでが扱われていました。
ドラマでは、小一郎(秀長)は京都に滞在していて、本能寺の変を目撃し、秀吉に変事を報せるとともに、織田方諸将を引き留めるための工作をおこない、尼崎城で秀吉に合流する、という動きになっていました。また、近江長浜城にいた、小一郎嫡男の与一郎も合流する、という内容になっていました。
実際の秀長は、秀吉に同行していたと考えられますが、13日の山崎合戦までその動向は史料的には確認されていません。そのためこの設定には、史実の間隙をぬう、巧みさを感じることできるでしょう。
秀吉は備中高松城攻めの陣から京都に向けて引き返します。後世、これを「中国大返し」と呼ぶようになりますが、これは江戸時代後期になってからみられるものです。
実際をみてみると、毛利家との和睦を成立させたのが6月4日。秀吉は5日朝に陣払いして、中国攻めでの本拠の播磨姫路城に帰還します。姫路城に到着したのは、6日のこと。100キロをまる二日で移動しました。
実際をみてみると、毛利家との和睦を成立させたのが6月4日。秀吉は5日朝に陣払いして、中国攻めでの本拠の播磨姫路城に帰還します。姫路城に到着したのは、6日のこと。100キロをまる二日で移動しました。
ただ当時の進軍距離は、通常で1日およそ40~45キロ。なので2日で100キロの行軍は、少し急いだ程度のものなのです。だから決して、驚異的なものであったわけではありません。
そして秀吉は、姫路城でまる2日休息し、9日に出陣、35キロ移動して播磨明石城に到着、10日夜に明石城を出陣して11日に、45キロ移動して摂津尼崎城に到着しています。12日に尼崎城を出立して、32キロ移動して摂津富田に着陣、先陣はそのままさらに18キロ進軍して山城山崎に着陣しています。この時の先陣の移動距離は50キロなので、ここでは少し急いだかたちになっています。
こうみると、この時の秀吉の行軍が、決して不可能なものであったわけではなく、基本的には当時一般の行軍の範囲内で理解できるものなのです。
毛利家との和睦についても、前日の3日には、4日に結ぶことが取り決められていました。毛利家からは、前月下旬から和睦を申し出られていて、秀吉は初め、毛利家に5か国の割譲を要求していました。
4日の和睦にあたって、秀吉は毛利輝元と血判起請文を交換、さらに両者は「兄弟契約」を結び、毛利家からは人質2名が出されました。そして領土については起請文には記載せず、2か国については放棄する旨を口頭で伝えた、ということです。人質は、秀吉の陣払いを保証するためのものです。ここから毛利家には、秀吉を追撃することなど考えていなかったことがわかります。
秀吉が本能寺の変を知ったのは、3日深夜から4日夜明け前にかけてのこと。京都商人・茶人の長谷川宗仁からの飛脚で知ったとみられます。その時には、翌日に毛利家と和睦を成立させることは決まっていました。秀吉は本能寺の変を知っても、予定通りに和睦を成立させ、そのうえで京都に向けて帰還することを即断し、行動したのでした。この時の秀吉の決断と行動が、その後の政治情勢を大きく作用した、といえるのです。
-
-
慶と与一郎の小道具です。