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学部・研究科レポート

2026.04.26

大河ドラマ「豊臣兄弟!」ワンポイント解説・第16回

第16回では、元亀元年(1570)の姉川合戦のあとから、宇佐山城合戦を経て、元亀2年の比叡山攻めまでが取り上げられていました。
劇中では、朝倉家・浅井家については「朝倉・浅井」と、常に朝倉家が先に呼ばれていることに気がつかれたでしょうか。これまでの大河ドラマでは、一般的に通っている「浅井・朝倉」と呼ばれていましたが、今回はあえて、常に朝倉家を先に呼ぶようにしてもらっています。それは浅井家は、あくまでも朝倉家に従う存在で、政治主体としては朝倉家のほうが上位に位置していて、そのことを明示するためです。
さて比叡山攻めには、秀吉が参加していました。これまでの大河ドラマでも、一様にそのように扱われてきました。ところが実際には、秀吉がそれに参加していたことを示す史料はありません。同時に、明らかに参加していなかったとする史料も存在していません。
なのでドラマで、秀吉が参加していることには、問題ないといえますが、実態としては、秀吉は参加していなかったように思われます。おそらく横山城に在城を続けて、浅井家の動きに備えていたと思われます。
また浅井方の宮部継潤が織田方に寝返り、それにともなって弥助・とも夫妻の長男・万丸が宮部の養子に入ったことが扱われていました。弥助・とも夫婦の子「万丸」は、のちの関白秀次にあたります。最初は宮部継潤の養子になっていました。このことが大河ドラマで取り上げられたのは、今回が初めてになります。
ただ養子化の時期は判明していません。宮部はその後は秀吉の与力として存在し、天正8年(1580)には、但馬二郡の支配者・豊岡城主、また但馬勢を率いる一軍の将になっています。その時には、万丸は養子になっていたと考えられます。私としては、養子に入ったのはその時のことではないか、と考えています。
ちなみに「万丸」の読みですが、ドラマでは「よろずまる」になっています。一般的にそう呼ばれているからです。その時は「万丸」の根拠を確認できていませんでしたが、その後、「因幡民談記」という史料によることを確認できました。そこには「御万」と記されていて、それだと読みは「まん」であったと考えられます。こうして研究は、日々進展していくものなのです。
  • 信長の甲冑、裏側からです。
  • 信長の脇指です。

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