12月4日に放送された第48回は、慶長19年(1614)12月20日の和睦成立の後から、翌同20年(元和元年)3月に、徳川方が再度の大坂攻めを決断するまでが扱われていました。実に4ヶ月近くが駆け足で扱われていたんですね。
このなかのエピソードの一つに、信繁が徳川方で在陣していた真田信吉の陣を訪問することがありました。これについては当時の史料では、まだ確認できていませんが、近世真田家での伝承からみて、ほぼ史実であったろうとみられています。信吉らが何時まで大坂に在陣していたのかは明らかではありませんが、正月下旬頃には帰陣する状況にあったようです。ちょうどその頃、大坂城の堀の埋め立てが終了し、徳川方の諸大名は相次いで帰陣していきました。信吉もそれにあわせて帰陣したのでしょう。
信繁が信吉の陣を訪れたのは、その間のことであったとみられます。そこで信繁は、兄信之からの恩(助命のことでしょう)に報いることができなかったこと、戦死することなく生きながらえていることなど、伝言を頼んだようです。兄弟は最後まで想い合っていたことがうかがわれますね。
ドラマの最後のところで、信繁が兄信之に宛てた手紙が読まれていました。実際には信之宛のそのような手紙は存在していません。しかし内容のもとになっている手紙は存在しています。それが娘すえの岳父石合十蔵に宛てたもの、姉村松殿(ドラマでは「松」)に宛てたもの、そして信繁の最期の手紙になる、「松」の夫小山田茂誠に宛てたもの、になります。ドラマでの手紙は、それらにみえる内容をミックスしたものになっています。
なかでも小山田茂誠に宛てたものは3月10日付け、すでに大坂方では堀の掘り返しや武器の購入など、再戦の準備が公然と行われ始めていた時期のものでした。そのなかで信繁は、「一日先のことはわからないので、私のことは浮き世(現世)にあるものとは思わないで欲しい」と述べています。信繁は何を思っていたのか、いろいろ想像が膨らむ文面といえるでしょう。こうしたところがあるから、信繁の人生はドラマにあうのでしょうね。
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