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大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(32)

2016/09/05その他

法学部教授 黒田基樹

 9月4日(日)に放送された第35回は、第二次上田合戦・関ヶ原合戦への直前、真田家にとって最大の分岐点となった、慶長5年(1600)7月21日の「犬伏の別れ」が扱われていました。

 当然ながら、「真田丸」のなかでも最大の見せ場の一つとして作られていました。しかも後半の、昌幸・信幸・信繁の会談、その後の信幸と信繁の対話は、本作中でも最高、さらには大河ドラマ史上にも残るような名演だったように思います。

 しかしこの「犬伏の別れ」、確かな史料ではその内容はほとんど不明なんです。確かなのは、その日の夜に昌幸・信繁が戦陣を離脱し上田に向けて帰還したこと、それらの家来はあわててその後を追っていったこと、会談は父子3人だけで行われたらしく、その内容は不明であること、信幸だけが残って、24日に徳川家康のもとに参陣したこと、くらいです。

 ところが江戸時代になって、会談の内容について様々な推測がされ、時代が下るにつれて尾鰭が付いていきます。通常は、昌幸が家の存続のために二派に別れる決断をした、と語られていますが、これは初期に見られた伝承で、後になると、昌幸・信繁と信幸は日頃から仲が悪く、喧嘩別れ、さらには合戦さながらの争いがあった、とまで発展しています。

 しかし先に述べたように、確かなところではそれは確認されません。また会談の場所についても、犬伏ではなく、その西隣の天明とする伝えもあり、こちらのほうが可能性が高いです。信幸と昌幸・信繁は、別々の軍勢を率いていて、信幸が先行して犬伏に宿所をとり、昌幸・信繁はそれに続いていて天明に宿所をとっていて、昌幸が自信の宿所に信幸を招いて会談した、というのが妥当とみられます。

 またドラマのなかで、河原綱家が信幸から物を投げられて歯を欠くという場面、これは「真田丸紀行」のなかで紹介があったように、昌幸が下駄を投げつけた、という伝えをもとにしています。この伝えは、河原綱家の子孫に伝えられたものですが、残念ながら史実ではないとみられます。河原綱家はこの時、大坂の昌幸屋敷の留守居として大坂にいたからです。しかしドラマではこれを取り上げないわけにはいきませんよね。

 実際の「犬伏の別れ」はどのようなものだったのか、以上の内容については拙著『「豊臣大名」真田一族』(洋泉社)に記していますので、ご参考いただければと思います。

 これは大坂の真田屋敷のセットです。

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