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学部・研究科レポート

2019.01.15

教育の小径(きょういくのこみち)4―経験と学問―

現代文化学部講師 鵜海未祐子

 授業後に提出されるコメントシートに、「自分で体験したことしか信じません」「授業ではこういう理論と事例が紹介されていたけれど、それは体験したことがないので想像がつきません(理解できません)」「自分の体験に基づいて発言する人間でありたい」というセリフがたびたび並びます。

 個人レベルの道徳の話としてなら理解は可能です。「噂(噂の段階で広がる話は、根拠がないので、陰湿や偏見を帯びる傾向あり)を無責任に流さない、噂に加担しない」という清らかさが伝わります。しかし注意すべきは、学問の知見は噂とイコールではないということです。学術書で紹介される理論や事例は、学会で多くの人々による厳しい議論や批判的検証をくぐり抜けた、という意味で、一定の客観性を有しています。そして社会の各方面から再検討され続けている、という意味で、さしあたり広く認められる見解と言えます。

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 ここでキーワードになるのは、「体験」と「経験」の違いです。「体験」とは、文字どおり「自分の身体や行為を介した直接的な営み」を、「経験」とは、「他者の体験や話もしくは自分の思考を介した間接的な営み」を意味します。授業で学問的知見に触れるのは、いわゆる経験知をふやすことと同義です。

 個人が体験できる範囲は限られています。だから体験知を絶対化してしまえば、味わえる世界が狭くなるのみならず、自分の体験を意味づけ評価する作業に偏見が入り込む恐れがそれだけ強くなります。個人は、偏った評価に縛られるという点で、不自由な世界にとどまることにつながるでしょう。教師がそのような生き方をする場合、もっと厄介な問題をはらみます。なぜなら、ある種の「思い込み」をいろいろな個性をもつ子どもたちに押しつけ、ジャッジし、多種多様な可能性の芽をつぶしてしまうリスクがいっそう高くなるからです。

 他者とともに共生する私たちの成長可能性は、体験知のみならず経験知により多くふれた分だけひろがります。そのような意味でも、学問に触れてほしいと思います。今回は、日本の民主教育の礎を築いた教育学者である勝田守一の言葉を結びとします。

 「経験(体験を含む=筆者による補足)をだいじにすることは、これを絶対化することではない。......それは逆に経験の真の意味を見失うことに通じる。ほんとうにだいじなのは、経験のひとつひとつを、いつもより高い人間経験に成長させる条件を、見出すことなのである。」堀尾輝久(1989)『教育入門』岩波書店、150-151頁、再引用。

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