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第3回都市探訪「横浜:西洋との出会い」

2019/03/11授業風景

現代文化学部 ジョエル・マシューズ講師

 2018年度「都市探訪」の第3回の学外授業が昨年の6月9日(土)に実施されました。今回は「横浜:西洋との出会い」というテーマで、横浜開港資料館、横浜赤レンガ倉庫、海外移住資料館を訪問してきました。横浜という都市は、日本の窓口だったという歴史について、学びました。

 横浜という都市は幕末から日本の出入口という役割を果たしてきました。今回の「都市探訪」では、日本に影響を及ぼしてきた諸外国のみならず、外国へ出稼ぎに行った日本人も諸外国に影響を及ぼしたことを中心に勉強してきました。横浜は日本で最初に開港された都市であり、そして鉄道、ベーカリー、ブルワリー、写真撮影スタジオ、映画館、新聞、公衆トイレ、アイスクリームの発祥の地でもあります。江戸時代から多くの外国の船が訪れており、現在でも多くの外国人も住んでいます。それから、2009年から横浜市は「横浜の150年の歴史を振り返り、横浜の発展を祝い、次なる50年に向けてより暮らしやすく魅力あるまちを形作ってゆく」という都市計画を図っており、今回の「都市探訪」で横浜の「昔と今」の密接な関係について、学習し、体験することができました。

 今回の都市探訪について、学生のレポートを紹介します。


現代文化学部2年 薄田瑞希

 今回の都市探訪で訪れた海外移住資料館では、日本人(日系人)のハワイへの移住について学んだ。
 日系人がホスト・ソサエティ(Host Society)から差別を受けていたというのは知られている話だが、逆に日系人が他の民族を偏見の目で見ていたというのも事実である。まず、ハワイアンに対して、「怠け者だ」という思い込みから「土人」と呼んでいた。また、同じ日本人でもオキナワンと呼ばれる沖縄出身者に対して、不当な差別を行っていた。一つ目の理由は、オキナワンは日本本土(沖縄の人々は内地と呼ぶ)出身者たちとは言語や文化、慣習が違うからである。二つ目の理由は、オキナワンのハワイへの移住の時期が内地(ナイチ)の人々の移住の時期よりも遅かったからである。
 また、日本から移民した世代を日系移民一世と呼び、その子どもの世代を日系移民二世と呼ぶ。日本からハワイへ移住した時、日本で生まれ育った一世には、ハワイに永住する気はなかった。しかし、1907年、日本人がハワイからアメリカ本土へ移ることが連邦によって禁止された。そのため、日本人は日本に帰るかハワイに留まるか、どちらかを選択しなければならなかった。
 ハワイに留まることを選んだ一世は、現地の言語や歴史を学ぶためにハワイの公立学校へ、親とのコミュニケーションの方法を学ぶために日本人の学校へ、自分の子どもを通わせた。しかしそれが、かえって日系人がハワイの文化に馴染もうとしない集団だとしてホスト・ソサエティの反発を生んでしまったのだ。
 日系人が外国へ永住すると決まった時、彼らのアイデンティティが激しく揺れたことが窺える。現在、移住する人々はどの国でも増えているが、彼らがそのアイデンティティとどのように向き合っていくのか、今後も見ていきたい。

20190311gendai_01.pngハワイに住在している日系人移民の一族の集合写真です。ルーツを感じますね。

20190311gendai_02.jpg横浜開港資料館の前で学生の集合写真です。天気が良くて気持ちよかったです。

20190311gendai_03.jpg横浜開港資料館で学生が「ペリー来航」について学んでいる風景です。

20190311gendai_04.jpg学生が横浜赤レンガ倉庫の歴史について勉強しています。

20190311gendai_05.jpg海外移住資料館でハワイに渡った日本人移民について学んだ後、解散時の集合写真です。皆さん、お疲れ様でした。




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