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学部・研究科レポート

2018.12.10

教育の小径(きょういくのこみち)3―能力はつくるもの―

現代文化学部講師 鵜海 未祐子

 しばしば学生の多くから「勉強きらい」「テスト苦手」という声が届きます。たしかに自分の興味・関心など無関係に、次から次へと強制される勉強やテストに対して、違和感をもつことは、自然な成り行きであって、自分を持っているという意味で望ましい傾向でさえあるかもしれません。しかし、だからといって、自分から学ぼうとする「学習」まで放棄してしまうことは別個の話であって、もったいないと思います。

 一方で、同じく学生の多くから「しかしコミュニケーション能力が高い」という自負の声をよく聞きます。「勉強より人間力」というセリフも幾度となく耳にします。そしてコミュニケーション能力とは、「空気を読む力、周囲に合わせる力、社交力」だという説明が続きます。

 しかしながら、「テスト勉強」も、かくいう「コミュニケーション能力」も、所与の前提に合わせるという点で同じ性質のものではないでしょうか。つまり、与えられているものをよくよく吟味せず、受け身の姿勢で消極的に反応していることに「テスト勉強」も「空気を読む力」も違いがないと言えると思います。

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 教育者で研究者であり、多くの教育関係者を勇気づける名言を残した斎藤喜博(1911-1981)は、学校のテストが要求する能力の一面化に注意を払い、次のように述べています。

 「要領がよいとか、出来上がっているものにうまく合わせていくとか、相手の要求していることにうまく調子を合わせていくことができるとかいう意味においては、一つの能力であるかもしれない。けれども、けっしてそういうものだけが人間の能力ではない。」
 「人間の能力は、もっと多様であり可能性にとんでいるものである。知識を正確に獲得することも、正しい論理を持つことも、追求力とか創造力とか技術とかを持つことも、能力である。ほかの人のすばらしさに感動し、それを自分のなかにとり入れて、自分をふくらませたり自分を変えていったりすることも能力である。病弱なからだをじょうぶにしていくことも能力だし、病弱なからだであるのに、なにか一つのことをやりとげていくということも能力である。」(以上、『君の可能性―なぜ学校に行くのか』1996年、筑摩書房、75頁)
 
 話を元に戻すと、先の引用文は、刺激に反応するものとしての受動的な能力を、後の引用文は「生きる力」となる自主的に学ぶ能力にあてはまると思います。そして、後者の「学力」をたずさえた時、わたしたちの生活はゆたかではりのあるものになってゆくのでしょう。

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