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教育の小径(きょういくのこみち)2―子どもと教師の生命力

2018/11/30コラム

現代文化学部講師 鵜海未祐子

 教育という営みは、たしかに外部からの働きかけという面も持つのですが、しかし忘れてならないのは、働きかけられる子どもの内部にそなわる生命力の存在だと思います。教師の立場からすると、「ああしたらよいのに」「あれをさせよう」「こうすればこうなるのに」とあれこれ思案しているうちに、目の前の子どものいろいろな意思や理由を置き去りにして、教師の考えを「善きこと」として早急に押し付けてしまう場合が少なくありません。そして、そのような教育的関係がパターン化してくると、子どもたちの多くは「自分の気持ち」を確かめる前に、「教師の気持ち」を読み取るテクニックを身に付けてしまいがちです。そうなると、子どもたちに内在する生命力の多様性は萎縮して、画一的で受動的な反応力が教育成果と見間違えられることになります。

 かつて教育学者と授業実践家の2足の草鞋で精力的に活躍した林竹二(1906-1985)は、『決定版 教育の根底にあるもの』(1991年、径書房)という著作の中で、次のような教育状況を鋭く批判し、教師の仕事を端的に表現しています。

 「今のような授業の形では、予習をしてきて、借りものの知識を多く持っている者が授業の中心になって、大部分の子どもが締め出されている。その状態をなんとかして改めなければ、子どもの不幸は止む時はないだろう(略)」(99頁)
 「しかし教育の根底に、内部に生命を持つ子どもがいて、その生命の力で子どもはおのずから成長していき、みずから自分を変える力を持っている。その力を引き出すのが教師の仕事なんだということを押さえなければならない」(同)

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 仮に、子どもと教師との教育的関係が、互いの生命力を相互に尊重し刺激しあうことを通じた成長の営みであるとするならば、教師の手元に置かれた明瞭な解答と、それを土台とした教育的テクニックが、目の前の子どもの生命力(特にプラス面)をかえってぼやかしてしまうことに対して、常に注意を払う必要があると言えるのではないでしょうか。




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