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学部・研究科レポート

2016.11.21

大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(43)

法学部教授 黒田基樹

 11月20日に放送された第46回は、慶長19年(1614)12月4日の真田丸の戦いの後から、12月18日の両軍の和睦会談にいたるまでの状況が取り上げられていました。大体は時間軸に沿っていますが、前後関係についてはやや曖昧なところもあります。これはドラマ性の重視によります。

 信繁の関係では、徳川家臣になっていた叔父の真田信尹による調略がありました。これは12月14日のことです。徳川家康の家老本多正純の指示により、信尹が信繁のもとに調略のために派遣されていたことが確認できます。ただし調略内容については、あくまでも伝承です。信尹の信繁訪問は2回行われたとされ、最初に10万石を与える案が提示され、信繁が応じないと、本多は信濃一国に条件を引き揚げましたが、信繁はこれを聞いて本多に誠意がないとして、以後は会談に応じなかった、といったことが伝えられています。会談が複数回あったとすれば、その交渉は12月中旬を費やしていたことでしょう。

 また大坂方牢人の塙団右衛門が、徳川方蜂須賀家の陣を夜襲したのは、17日未明のこと。引き上げの際に「夜討ちの大将塙団右衛門」と書いた小札をばらまいていたとされています。ドラマでこれまでに、団右衛門が名刺代わりのように小札を配っていたのは、ここから発想されたものです。

 そして徳川方による大坂城への砲撃。これは12月16日から19日頃にかけて、連日行われました。片桐且元が茶々の居場所を教えたというのは、「難波戦記」にみえる話、茶々の居室の櫓が砲撃によって崩され、侍女7、8人が圧死した、というのは「徳川実紀」などにみえる話になります。18日には、茶々・秀頼が和睦に応じてその交渉が始まりますから、それらのことはそれより以前のことになります。

 こうしてみると、前後関係が微妙であることがわかるでしょう。しかしそれをそのままに扱ってはドラマにはなりません。史実に基づきつつドラマを作るというのは、かなりの工夫が必要なのだと、あらためて感じますね。

 今回は家康の陣羽織です。

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