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学部・研究科レポート

2016.09.19

大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(34)

法学部教授 黒田基樹

 9月18日(日)に放送された第37回は、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦後から、昌幸・信繁が配流先の紀伊国九度山に入るところまでが扱われていました。

 昌幸らの軍事行動は9月23日まで行われていましたが、合戦の結果をうけてか、その後は停止し、12月13日までに徳川家康に降伏、その日に上田城を明け渡し、高野山に赴きます。その際、通説では、嫡子の信幸が家康に対し、昌幸らの助命を懸命に嘆願したとされます。ドラマでもこれが採用されています。

 実際をみると、信幸はこの間に、家康に昌幸の赦免の嘆願のために上洛しており、また家康重臣の誰かもそれを支援するために上洛しています。ここでの嘆願は、状況からすると、すでに助命は決定されていて、さらに配流の赦免ではなかったかと思われます。翌年も、信幸は赦免を嘆願、慶長8年初め頃には、赦免はかなり現実味を帯びていたようです。しかし結局、昌幸は「公儀(徳川家)御憚りの仁」として、家康から赦免をうけることなく、九度山で死去することになります。

 ドラマのなかで、家康が昌幸に対して、「1、2年で帰ってこられるなどゆめゆめ思うでないぞ」と言っていましたが、この事実を踏まえてみると、なかなか意味深なセリフになっていると思います。

 また信幸は、昌幸らの配流を機に、実名を「信之」に改めます。これについて、通説では、昌幸に通じる「幸」字を憚ったため、とされています。ドラマでもこれが採用されています。ドラマ的には面白いですからね。ところがよく調べてみると、信之は慶長13年から同17年の間、元の「信幸」に戻しているのです。このため信之への改名は、理由はわかりませんが、「幸」字を憚ったわけではなかったらしいのです。このことについては拙著『真田信之』(角川選書)をご参照下さい。

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これは真田家の幟旗です

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これは戸石城の場面で出てきた竹束です

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