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学部・研究科レポート

2016.08.01

大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説(27)

法学部教授 黒田基樹

 7月31日(日)に放送された第30回は、文禄5年(慶長元年・1596)閏7月の伏見地震のあとをうけて、慶長3年(1598)7月の、秀吉の死去の直前までが扱われていました。

 このなかで、秀吉の嫡子拾の元服が取り上げられていました。そして元服後の名が「羽柴藤吉郎豊臣の朝臣秀頼」となっていたのに気がつかれたでしょうか。

 拾は文禄5年5月に初参内しましたが、その時に官位を与えられ「左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)従四位下(じゅしいのげ)臣豊臣朝臣藤吉郎秀頼」を名乗ったとする記録があります(『太田牛一旧記』)。ただしこれは2度目の参内での叙任と混同したものと考えられます。実際の元服は伏見地震後の同年閏7月のことのようで、慶長2年(1597)9月に二度目の参内を行い、ここで従四位下・左近衛権少将に叙任、すぐに左近衛権中将に昇進されています。

 ただ先の記録により、秀頼の仮名(けみょう)が「藤吉郎」であったことがわかります。仮名は、元服後に名乗る通称の一つで、信繁の場合でいえば「源次郎」にあたります。「豊臣」は「氏(うじ)」なので、名字とは異なります。名字は、解説14でも触れたように、「羽柴」しか考えられないわけです。そこで先のような名乗りにしたわけです。

 「羽柴藤吉郎」の名は、秀吉が若き頃の名乗りとして知られていますが、これは嫡子秀頼にも襲用されていたのですね。

 もう一つ。信幸に二人の男子が生まれていましたね。ドラマではともに慶長2年生まれの設定にしています。ただ長男信吉(仙千代)については、文禄2年・同4年生まれ説があり、次男信政(百助)についても慶長元年生まれ説があるなど、確定していません。現在、信吉は文禄2年、信政は慶長2年生まれの可能性が高いとみられていますが、確定事項ではないため、そのように作劇しているのですね。

 それから信吉の母についても諸説あります。小松殿(「稲」)とするもの、清音院殿(伯父真田信綱の娘・「おこう」)とするもの、侍女とするものなどです。小松殿以外の伝えがあるので、清音院殿の可能性が高いとみられています。そこでドラマでは、清音院殿説と侍女説をミックスして、「おこう」の立場を設定しているんですね。なかなか考えられていると思いませんか。これらのことについては拙著『真田信之』(角川選書)をご参考下さい。

 今回のおまけは、醍醐の花見のセットです。

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