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学部・研究科レポート

2017.11.25

路(みち)

現代文化学部 鵜海未祐子講師

 「学び」とは何だろう。なぜ私たちは「学ぶ」のだろう。
 そのようなクエスチョンを抱いたことは誰しもあるのではないでしょうか。多くの見方が考えられると思います。今回は、その内の1つに焦点をあてることにします。

20171118gendaibunka_001.jpg さて「学ぶ」という時、学校における運動場や机の営みだけを意味するわけではありません。「学び」の概念を押し広げれば、学校外の「成長の営み」全体を捉えることができると思います。いや、むしろ学校での「学び」の機会というのは、生涯の大部分を過ごすことになる学校の外で(例えば家、社会、将来)、人生を自分なりに描いてゆくにあたっての「スタート地点」もしくは、描いている過程を確認して改善しつづけるための「きっかけをうむ地点」とも理解できます。

 もちろん、人生の行路は、必ずしも常に順風満帆とは限りません。みなさんもご存じのように、誰しもが試行錯誤を重ねつつ、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだり、歩いたり走ったりしながら、いつの間にか成長し発達していきます。しかし、このような多少そうぞうしい過程だからこそ、いろんな出来事に振り回されるのではなく、それらをポジティブに人生の彩りとして捉えなおしてゆく営み、そのように創意工夫をこらす学びに、私たちは「楽しみ」を見出すことができるのではないでしょうか。

 たとえば、かつてラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr 1892-1971)は、神学者として次のような有名なフレーズを残しています。

 「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと変えることのできないものを、識別する知恵を与えたまえ」(大木英夫 「解題=訳者あとがき」 ラインホールド・ニーバー『道徳的人間と非道徳的社会』大木英夫訳、白水社、1998年に再引用&所収296頁)
 私たちは、何を、なぜ、「学ぶ」のだろう。

 ニーバーに倣うとすると、人生の行路において、私たち一人ひとりが、変えられる変えるべき次の一手をみすえ、おもみのある一歩を踏みだすことを楽しめるように、と言えそうです。

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