10.01.29
「フレセキュリティ」(flexicurity)と「フレシキュオリティ」(flexsecquality)
●昨今の雇用問題と労働法の役割
昨今の景気の低迷を反映して、雇用問題が再び新聞やマスコミでクローズアップされるようになってきました。派遣労働者や期間労働者などの非正社員の首が切られ、失業率が高い水準に達しています。また、大学の新規学卒者の就職率が低迷し、就職氷河期の再来、ともいわれます。労働法は、労働者を守るための法律ですが、こうした現状をみると、何の役にも立っていないのでは、と思う人がいるかもしれません。小泉政権で行われた規制緩和によって非正社員が急増したという評価もあります。
●正社員の雇用保障
たしかに、上記のような評価もありえないわけではありません。しかし、景気が悪化したときに、非正社員や新規学卒者に失業リスクが集中するのは、労働法が、正社員に対する雇用保障を軸にして形成されているためです。労働法が労働者を保護していないのではなく、特定の労働者である正社員の雇用保障にとりわけ焦点を当てているので、正社員として採用されなかった非正社員や労働市場に参入しようとしている新規学卒者にそのしわ寄せが及ぶのです。また、小泉政権下において行われた派遣労働に関する規制緩和が、非正社員増加の主たる要因だ、ということもできないでしょう。非正社員の首切りが容易で、正社員の首切りが難しいという仕組みを一貫して採用してきた労働法の基本的な仕組みと高度成長が望めない経済状況が、非正社員比率の上昇圧力として作用してきたといえます。
●「フレセキュリティ」(flexicurity)
そもそも、高度成長期においては、非正社員の多くは、家計の補助的役割を担う女性労働者の割合が多く、そうした家計の補助労働に失業リスクが集中しても、男性正社員の雇用が守られていれば、大きな問題は生じませんでした。労働法は、いわば、一家の大黒柱としての男性労働者の雇用を手厚く保障する(セキュリティsecurity)一方で、非正社員に対する雇用保障を低くして市場変動に対する柔軟性(フレキシビリティflexibility)を確保し、これにより、セキュリティとフレキシビリティを同時に実現してきたのです(セキュリティとフレキシビリティの組み合わせは、「フレセキュリティ」flexicurityと呼ばれています)。しかし、経済成長の鈍化や競争激化に伴って、経営の柔軟性や効率性が次第に強く要求されてきました。効率性や柔軟性の要請に基づき、非正社員、とりわけ若年層の非正社員が飛躍的に増加し、その結果として、雇用保障・賃金水準に関する正社員と非正社員との間の均衡確保が、重要な問題として浮上してきたといえます。労働法は、現在、正社員(インサイダー)と非正社員、失業者(アウトサイダー)との関係をどのように整序すべきか、という困難な課題に直面しているのです。
●海外の法規制はどうか?
海外の労働法規制に目を向けると、非正社員である有期労働契約の利用について、強力な規制を行うところもあります。フランスやドイツでは、有期労働契約を利用することについて正当な理由が要求されていて、日本のように自由に非正社員を活用できないことになっています。しかし、こうした規制を採用すれば日本の現在の問題が解消される、と考えることはできないでしょう。非正社員に対する雇用保障強化は企業の採用意欲減退を生み出し、失業者の増加を招くからです。労働市場の柔軟性が損なわれてしまうのです。実際、ドイツやフランスの失業率は、日本よりも高い水準で推移しています。一方、アメリカでは、正社員に対する解雇自由原則が採用されていて、景気後退期に非正社員に失業リスクが集中するという現象はみられません。ただ、アメリカのような解雇自由原則を日本に導入して、正社員に対する雇用保障を撤廃することに賛成する労働法学者は少数です。一般的にみても、正社員として採用されても、すぐに首を切られる社会に躊躇を覚える人は少なくないのではないでしょうか。
●「フレシキュオリティ」(flexsecquality)?
もっとも、上記の問題について、私自身、明確な解決策を有しているわけではありません。しかし、仕事は多くの人にとって、生計の糧であると同時に、社会参加や自己実現の手段等の意味もあるわけですから、可能な限り多くの人に仕事を分配する必要はありそうです。その意味では、非正社員の雇用保障について強力な保護規制を整備して、失業者の増加を招く事態は回避すべきだといえるでしょう。いっそう理念的には、私は、労働市場の柔軟性(flexibility)、労働者の雇用保障(security)、正社員と非正社員の均衡(equality)という三つの要請のバランスを達成する法規制に問題解決の着地点があると考えています(この三つの要請の組み合わせがフレシキュオリティflexsecqualityです)。柔軟性と保障だけではなく、正社員と非正社員あるいは失業者との均衡を考慮していく必要があるでしょう。具体的な制度設計については、フランス、ドイツ、イギリス、オランダ等との比較法研究や法と経済学的考察が要求されるところで、これは私の今後の研究課題です。いずれにしても、こうした現代的な雇用問題について、学生と議論できることが、大学教員の醍醐味だと思っています。
第1回 「子ども虐待の防止――私たちにできること」(吉田恒雄教授)
第2回 「私の憲法研究」(「北原仁教授)
第3回 「経済に関する法の直面している問題」(大録英一教授)
第4回 「証明責任・証明妨害 ― 神判に起源?」(太田幸夫教授)
第5回 「鳩山新政権と政治学」(西川敏之教授)
第6回 「刑事政策について」(米山哲夫教授)
第7回 「時効とは?」(竹内俊雄教授)