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学部・研究科レポート

2018.05.09

教育の小径(きょういくのこみち)1 ―学校の先生になりたい君に―

現代文化学部講師 鵜海 未祐子

 本コラムでは、教育学に関係する著作を参照しながら、教育的エピソードをいろいろ紹介してゆきます。とくに教職を志す学生の皆さんに、また日頃の学校生活や自己実現と成長について興味を抱く学生の皆さんに、「教育的なるもの」が、どのように考えられ語られてきているのかお伝えできればと願っております。それも通じて、ぜひ「教育」という営みをますます好きになっていただければ幸いです。よろしくお願いします。

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 とはいえ「教育」という言葉は、どこか上から目線なひびきを否定できません。たしかに年少者を導く教育的作用や責任を自覚することも大事かもしれません。しかし、その一面を過剰に強調しすぎると、自発性の芽を閉ざす、管理的で抑圧的な作用に形を変えてしまいます。教える側であれ教えられる側であれ、「教育」の最大化は、本来的に学び育ちあえる相互の過程を前提としているはずです。どのようにすれば、子ども達一人ひとりの可能性=尊厳を集団の中で最大化できるのか。それはまた、教職員一人ひとりの継続的で協同的な探求の最大化と表裏一体なものといえるでしょう。

 次回からは、特に学校教育との格闘の中で、「教育的なるもの」の輪郭を描こうと努力し続けた教育者の足跡に迫りたいと思います。もしかすると実際に自分が受けてきた教育と見比べて、美談に思えるエピソードもあるかもしれません。

 しかし、どうかそれを「理想論」として片づけないでほしい。「教育」は、当初は誰も想像しえなかった可能性の実現において本領を発揮します。それにまた、過去や現実に追随する営みとは正反対の発展的かつ葛藤的な要素も含んでいます。つまり「生きた理想」に自覚的でタフな注意が払われる時、「教育の風景」が深く鮮やかになるのです。

 最近、ベストセラーとして再評価・再注目された『君たちはどう生きるか』の著者である吉野源三郎は、別の著作で次のようなフレーズを残しています。

 「理想とは、単に私たちの未来にかかげられている幻影のような標識ではない。生きた理想とは、古い現実の中から生まれ出ようとしている新しい現実の、生き生きとした前触れなのである。」(吉野源三郎『人間を信じる』所収、岩波書店、2011年、p.60.)

 本コラムでは、天から舞い降りてくる完璧な「教育的なるもの」ではなく、現実の中で掘り出した「教育的なるもの」にアプローチしてゆきます。「新しい現実の前触れ」に意識のアンテナを張り巡らすことは、新世代の可能性を育てる教職の使命といえるでしょう。

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